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大阪地方裁判所 昭和63年(ヨ)3257号 決定

申請人

村上ヒサイ

右申請人代理人弁護士

武村二三夫

被申請人

社会福祉法人大阪水上隣保館

右代表者理事

中村八重子

右被申請人代理人弁護士

松井元

主文

一  被申請人は申請人に対し、金二一二万四二六九円及び平成元年三月から第一審の本案判決言渡しに至るまで毎月二五日限り金三〇万三四六七円を仮に支払え。

二  申請人のその余の申請を却下する。

三  申請費用は被申請人の負担とする。

理由

第一当事者双方の申立

一  申請人

1  申請人が被申請人の従業員たる地位を有することを仮に定める。

2  被申請人は申請人に対し、昭和六三年八月から毎月二五日限り金三一万九四三七円を仮に支払え。

3  申請費用は被申請人の負担とする。

二  被申請人

1  本件申請を却下する。

2  申請費用は申請人の負担とする。

第二当裁判所の判断

一  当事者

被申請人が、基督教主義をもって徳育の中心となし児童の福祉を目的とするため、第一種社会福祉事業、第二種社会福祉事業その他の事業を目的としており、肩書地に事務所を置き、養護施設遥学園、大阪水上隣保館乳児院、山崎保育園及び藤の里保育園、保母の養成施設であるキリスト教保育専門学校の経営を行っていること、申請人は昭和四八年四月一日から被申請人に雇用され、山崎保育園の保母として勤務していたこと、しかるに被申請人は申請人が昭和六三年七月二一日付けで任意退職したとして以後の就労を拒否し、同月二六日以降の賃金を支払わないこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

本件疎明資料及び審尋の結果によれば、申請人の勤務する山崎保育園の園長(施設長)は泉十次(以下「泉園長」という。)であり、昭和六三年八月三一日現在で申請人を含めない職員数は一六名(うち保母八名)で、保母のうち正職員は五名であること、一方申請人は同年三月労働組合である北摂地域ユニオンに加入したこと、以上の事実が一応認められる。

二  本件退職願の提出とその取消・撤回及びこれに関する双方の主張

申請人が昭和六三年七月二一日被申請人に対し、同日をもって退職する旨の依頼退職願(以下「本件退職願」という。)を提出したこと、申請人が翌二二日被申請人に対し、依願退職取消通知(以下「本件取消通知」という。)を提出したこと、さらに翌二三日被申請人が申請人に対し、三〇日間の業務停止命令(以下「本件業務停止命令」という。)を発したことは、いずれも当事者間に争いがない。

しかるところ、申請人は、本件退職願は雇用契約の合意解約の申込であるが、以下の理由によりその効力を有しないから被申請人主張の任意退職は成立しない旨主張する。

1  本件退職願は被申請人の強迫によりなされたものであり、申請人は、本件取消通知により右意思表示を取消した。

2  被申請人が本件退職願を受理し、合意解約を承諾するまでに、申請人は本件取消通知により本件退職願を撤回したから、合意解約は成立しない。

3  また、本件業務停止命令は、申請人と被申請人間に雇用契約が存在していることを前提とするものであり、申請人の本件取消通知が前記1、2の効力を有しないとしても、被申請人は本件退職願の取消・撤回を追認したものである。

4  被申請人は、申請人が労働組合に所属していることを嫌悪して、これを排除抑圧するために本件業務停止命令をなし、さらに申請人と被申請人との間の雇用契約が終了しているとの主張にまで及んだものであり、この主張は労働組合そのものを否定せんとする不当労働行為意思によるもので、公序良俗に反する。

被申請人は、申請人の右主張をいずれも争うとともに、被申請人は申請人から提出された本件退職願について、その場で泉園長を通じ承諾の意思表示をし、さらにその後まもなく被申請人の代表者理事中村八重子(以下「中村理事長」という。)が受理することを決定し、その日のうちにその旨申請人に通知したのであり、これにより申請人と被申請人間の雇用契約は任意退職により終了したこと、但し、被申請人は申請人を翌年三月まで臨時雇用することとし、その旨申請人に申込み、申請人がこれに応じなかったのに承諾したものと誤信して、臨時雇用契約の存在を前提に本件業務停止命令を発したもので、本件業務停止命令は従前の雇用関係の継続を前提としたり、本件退職願の取消・撤回を追認したものではないこと、仮に本件退職願が解約申入であるとすれば、解約申入期間を短縮してなされたもので、直ちにその効力を生じ撤回は許されない旨主張する。

そこで以下検討する。

三  本件退職願の受理の有無

本件全疎明資料及び審尋の結果(但し後記措信しない部分を除く。)によれば、以下の事実が一応認められる。

1  昭和六三年七月二一日午後四時ころ、申請人は勤務する山崎保育園の泉園長から園長室に呼ばれ、同園長から申請人の勤務態度等に懲戒解雇に相当する事由があり、任意退職しなければ懲戒解雇となり、退職金も出ないなどとして、強く任意退職を勧奨された。これに対し申請人は、年度末である翌年三月末まで猶予して欲しいなどと懇願したが、泉園長により聞き入れられなかったので、午後五時近くになり本件退職願を作成して泉園長に手渡した。なおその際、泉園長は申請人との話合いの内容を録音機により録音していたが、後日その録音テープを他の目的に使用し、右録音内容(申請人が本件退職願を作成提出に至るまでの泉園長とのやりとりを客観的に明らかにする証拠となるはずのもの。)を消去してしまった。

2  泉園長は、申請人から本件退職願を受領後、中村理事長のもとに赴き、本件退職願を提出するとともに、事の顛末を報告した。そして、中村理事長と泉園長との協議により、申請人の処遇として、年度末である翌年三月末までは、従前どおり勤務させることとし、それまでの間本件退職願の受理を留保しておくこととされた。

3  一方、申請人は泉園長に本件退職願を提出した後、直ちに山崎保育園を退出して自己の所属する労働組合事務所に赴き、組合幹部に事情を説明したところ、軽々に本件退職願を作成提出したとして責められたものの、右退職願を取消すべく、書面を作成提出するよう指導されたので、その場で本件取消通知を作成し、翌日これを被申請人に提出することとした。そして帰宅ののち同日午後八時ころ、申請人は泉園長の自宅に架電したが、同園長が不在であったため、同園長の妻に対し、引き続き働きたい旨の自己の希望を同園長に伝えてくれるよう依頼した。

4  泉園長は、前記のとおり中村理事長と協議の後、申請人に右協議結果を伝えようとしたが、申請人と連絡が取れなかったので日置アヤノ保母(以下「日置保母」という。)に申請人への連絡を依頼した。日置保母は、同日午後一〇時ころ申請人に電話で、本件退職願が翌年三月まで理事長預かりとなったので、明日からいつもどおり出勤するようにと伝えた。さらに、同日午後一一時ころ泉園長が申請人に電話し、同様のことを伝えた。申請人は、本件退職願が理事長預かりになったことを聞いて安堵し、泉園長に対し、特に異議を述べるなどはしなかった。

5  翌二二日、申請人は午前九時ころ被申請人の中村理事長に本件取消通知を提出したのち、体調不良を理由に早退した。しかして、同日午後三時ころから、申請人所属の労働組合と被申請人(泉園長ら)との団体交渉が行われ、そのなかで泉園長が、組合側が本件退職願を返還するように要求したのに対し、「取消すならそれで結構です。直ちに懲戒解雇にします。」と言明した。一方申請人は、右交渉のなかで激昂のうえ、「自分が死ぬ気なら園長だって理事長だって刺せますよ。」などと発言し、その場で泉園長らは、これを問題発言として指摘した。

6  そして翌二三日、泉園長は申請人の前日の前記不穏当な発言からして申請人が理事長、施設長(園長)、職員及び児童に危害を加える恐れがあるとの理由で本件業務停止命令を発した。

7  同年八月八日、申請人所属の労働組合と被申請人(泉園長ら)との間で再度の団体交渉が行われ、そのなかで泉園長が本件退職願は既に受理されていること、及び申請人の身分は臨時雇用であることを明示的に発言するに至った。そして、組合の要求に応じて同月一七日被申請人名の回答書(〈疎明略〉)により、被申請人の前記二項記載のごとき主張を明らかにした。

8  ところで、大阪府では保育所の常勤職員の給与につき補助金が支給されており、常勤職員であった申請人の給与もその対象であったもので、もし仮に申請人が臨時職員となった場合にはこの補助金の対象から外れ、申請人に支給する給与は全額被申請人の自己負担となるはずであった。ちなみに、昭和五九年ころ大阪府が補助金を支給する保育所職員の年齢を引き下げる方針を明らかにしたことに伴い、被申請人も職員の退職年齢を引き下げようとしてかねてこの問題が懸案となっており、赤字経営の続く被申請人にとって、職員給与に対する補助金支給の有無は重大問題であった。このことは、本件問題発生前の昭和六二年末ころないし昭和六三年始めころ、泉園長が申請人に対し補助金の支給が打ち切られる六二歳をもって退職するよう勧奨した事実があることからも窺われ、従って、被申請人が申請人を年度末まで従前どおりの資格で雇用を継続することも可能であるのに、あえて補助金の支給のない臨時職員として雇用しようとしたというのは、にわかに首肯し難いことである。なお、被申請人から大阪府に対し申請人が離職したとの通知が同年一〇月三日付け書面をもってなされた。

以上の事実が一応認められる。

しかるところ、被申請人は、〈1〉本件退職願の提出を受けたその場で泉園長を通じ承諾の意思表示をし、〈2〉さらに、その日のうちに中村理事長が受理することを決定し、その旨申請人に告知した旨主張するので検討する。

まず〈1〉の主張についてはこれを認めるに足る証拠がなく、〈2〉の主張に沿う泉園長の陳述等(〈疎明略〉)については、申請人に対し本件業務停止命令をいったん発しながら、その後自らこれを無効とした理由として、臨時雇用契約が存在すると誤信したことによるなどという説明が、いささか作為的な辻褄合わせの感を否めないことを始め、前記認定事実に照らし、陳述内容が不自然で合理性を欠く部分が少なからず認められるので、その陳述等はにわかに措信できず、また中村理事長や、木下陽吉作成の各報告書(〈疎明略〉)中の右主張に沿う部分も同様に措信できない。さらに、日置保母作成の報告書(〈疎明略〉)中の右主張に沿う記載については、同日午後五時三〇分ころ泉園長が全職員を集めて、申請人の本件退職願が先刻受理されて申請人が退職することになり当分職員が減員となる旨報告したとの部分が、泉園長の陳述中、中村理事長との協議により本件退職願を受理することを決定すると同時に臨時雇用をも決定した(この事実経過からすると、職員が当分減員になるとの報告が泉園長から出ることはない。)との陳述内容と齟齬することなどから、やはり措信できない。他に右主張を一応認めるに足る疎明はない。

四  雇用関係継続の有無

本件退職願の性質は、前記認定事実に照らすと、雇用契約の合意解約の申込の意思表示であり、一方的解約申入とは認められない。そしてこの申込の意思表示は、使用者からの承諾の意思表示があるまでは、撤回により使用者に不測の損害を与えるなど信義に反するような特段の事情がない限り、これを自由に撤回することができると解するのが相当である。

本件において、前記認定事実に照らすと、申請人が本件取消通知を被申請人に提出することにより本件退職願を撤回するまでの間に、被申請人が本件退職願を受理し、申請人の合意解約の申込に対し承諾の意思表示をなした事実は認められないし、また、申請人の意思表示の撤回が信義に反する特段の事情が存することの主張及び疎明もない。なお、本件取消通知は、本件退職願に係る意思表示が強迫によることを理由として取消す旨述べたものであるが、それは、意思表示の撤回の趣旨を含むものというべきである。

そうだとすると、本件退職願は有効に撤回されたから、その余の点につき判断するまでもなく申請人の任意退職は成立せず、被申請人との雇用関係は継続しているものというべきである。

五  申請人の賃金請求権について

被申請人の従業員に対する賃金が、毎月二五日払いであったこと、及び昭和六三年五月及び六月に被申請人から申請人に対し支払われた賃金額が、いずれも金三一万九四三七円であったことは当事者間に争いがなく、本件疎明資料によれば、右賃金は毎月二五日締めで同日払いであること、右支払額のうち金一万五九七〇円は通勤手当の趣旨で支払われるものであることが一応認められる。

六  保全の必要性

1  地位保全について

申請人は、本件仮処分申請において、賃金仮払とともに、従業員たる地位の保全をも求めているのであるが、本件で申請人が保全の必要性として主張及び疎明する事由は、主として被申請人から賃金の支払を受けられないことによる経済的困窮であって、これは賃金仮払仮処分をもって十分であり、任意の履行に期待するほかない地位保全仮処分をも必要とする個別具体的な事情を認めることができない。

2  賃金仮払について

本件全疎明資料及び審尋の結果によれば、申請人は被申請人からの賃金を唯一の生計手段としていたものであり、住宅ローンの支払もあり、被申請人からの賃金の支払が途絶えたことにより経済的に困窮していること、申請人は昭和六三年一二月一六日以降につき雇用保険の失業給付を受けているが、これは申請人が被申請人との雇用関係の存否を争っていることを前提に、暫定的に申請人が失業状態にあるものとして支給されているもので、雇用関係の継続が認められたときは清算すべきものであることが一応認められる。

右認定事実その他諸般の事情を考慮すると、申請人について昭和六三年八月以降平成元年二月までの一か月金三〇万三四六七円(前記賃金額から通勤手当金一万五九七〇円を控除した額。)の割合による未払賃金合計金二一二万四二六九円及び同年三月から第一審の本案判決言渡しまで毎月金三〇万三四六七円の賃金の仮払を求める限度で必要性が認められ、その余については必要性を認め難く、なお申請人が雇用保険の失業給付を受けていることは右判断を左右するものではない。また、被申請人は、申請人が満六〇歳に達し厚生年金の受給資格を得た旨主張するが、老齢厚生年金は一定の受給年齢に達した後退職して被保険者資格を喪失した場合に受給し得るのであるから、やはり本件における保全の必要性の判断を左右しない。

七  結論

以上によれば本件仮処分申請は、被申請人に対し未払賃金のうち金二一二万四二六九円及び平成元年三月から第一審の本案判決言渡しまで毎月二五日限り金三〇万三四六七円の賃金の仮払を命ずる限度で理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないので却下し、申請費用の負担につき民訴法八九条、九二条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 田中澄夫)

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